鉄道博物館 過去の車両

昭和初期

南海最良の電車

お召電車

 <南海>のお召電車をご紹介しましょう。昭和7年11月、近畿地方で陸軍特別大演習が行われ、同月13日天皇陛下はそのご統監のため、高野線難波-堺東間にご乗車になりました。このため<南海>では、お召電車用に1両を新造して運転にあたりました。車内の調度品は宮内省から拝借しました。なおこの車両は、お召の任についたあと一般車に改造され、クハ1862号として使用されました。

南紀直通の草わけ

黒潮号

「白浜ゆき直通快速、御入湯を兼ねて日本一南部梅林へ。黒潮列車毎土曜午後2時10分発」-昭和9年11月17日に始まった<南紀直通列車>の広告文です。
 区間は難波-白浜口(現白浜駅)間で、南海線内を電車にけん引された客車が東和歌山駅(現JR和歌山駅)から紀勢西線(省線)の列車に連結されました。
 これにより、大阪から白浜湯崎温泉への足の便が一段と便利になりました。

大型鋼製車登場

モハ2001系

 大正時代全盛をみた木造電車も、輸送力増大や運転速度の向上、それに伴う保安、安全面などの要求から鋼製車への切替えが必要になりました。昭和4年<南海>は画期的な大型鋼製車モハ301系(後にモハ2001系)を作りました。全長20メートル鋼製、八百馬力を持つこのグループは以後昭和45年まで43両が活躍し、昭和5年から難波-和歌山市間を特急60分運転で結びました。

日本最初の涼しさです

冷房車

 いまでは冷房車も普通になりましたが、わが国最初の冷房車は<南海>が作りました。昭和11年、クハ2802号に試験的に冷房装置がとりつけられ、このデータをもとに翌12年にはモハ2001-4号、クハ2801-4号の八両が「冷房電車」となりました。ご乗客には好評で、冷房車にだけ大勢の人が集中したため、人の熱気でかえって他の車両より暑かった、という話も残っています。

「南海型」の代表車

モハ1201系

 昭和の初め、急行用車両が旧貫通車(モハ1001系)からモハ2001系に変わると、普通列車にも従来の17メートル木造車に代わる輸送力を持ち、性能面でも一段と優れた半鋼製車モハ1201系が登場しました。

 第1号車の完成は昭和8年で、18メートルの車長に2枚扉の車体は、モハ2001系とともに木造車に代わる新しい「南海型」を作り上げました。

復興のシンボル「羽車」

モハ1501型

 昭和22年「カマボコ屋根に4扉」と、まったく南海型とは変わったスタイルの電車が現われました。通称「ロクサン」と呼ばれたモハ1501型で、終戦後の混乱期を乗り切るため、国鉄戦時設計型モハ63系が、当局から各私鉄に割当てられたもので、<南海>には20両が入線、電車前面のおでこの部分に描かれた「羽車」マークが、戦災復興へ立ち上がる意気ごみを表わしているようでした。

四国、淡路へ夢のせて

なると号

 昭和23年11月3日、多奈川線に深日港駅が開業、深日港-淡路、四国連絡航路が開設されました。そして昭和29年4月に連絡急行列車「なると号」、少し遅れて「あわ号」の運転が始まりました。この時「なると号」専用車両として、1556号+1557号+1904号の3両編成が選ばれ、白灰色と藤色のツートンカラーの塗色が、室内のクロスシートとともにお客さまに好評でした。