新生南海のあゆみ
終戦後、私鉄各社の間で再独立機運が高まってきた1947(昭和22)年3月、「高野山電気鉄道」が「南海電気鉄道」と改称。旧「南海鉄道」に属した鉄道・軌道全線を「近畿日本鉄道」から譲り受け、同年6月に新生南海が発足した。
しかしながら、戦災によって壊滅的な打撃を受けた鉄軌道線は、車両、要員の不足により輸送力の低下は著しかった。鉄道輸送の補助機関として大型乗合バスを運行させる必要が生じ、1948年「南海乗合自動車」を合併し、当社直営の南海電気鉄道自動車部として再スタートすることになった。
その後、朝鮮特需や日米経済協力体制の強化などによって日本経済は活況に向かい、当社の業績も徐々に回復し、1951年にはほぼ戦災復旧工事を終えたが、中でも自動車事業の復興はめざましかった。鉄軌道との有機的な交通網を形成して、沿線市町村の主要交通機関としての役割を果たす一方、大阪市内と郊外との直通輸送など、路線の拡充を図った。
戦後復興期を過ぎ、創業70周年を迎えて1950年代後半に入った当社は、①四国航路の開設②みさき公園の開園③南海会館の建設という三大プロジェクトを実現したほか、バス路線の飛躍的拡大や住宅開発事業の本格化、付帯事業の拡大などでグループとしての大きな成長をみた。
バス路線の拡大の背景には、通勤・通学客の著しい増加があった。これに対して、当社は、営業所の新設、路線の新設・延長とともに車両の大型化、ダイヤ改正などを臨機応変に行い、総合的な輸送力増加を図った。その結果、自動車事業の営業規模は大幅に拡大して、路線網は南大阪、和歌山市、紀北地方一帯におよぶことになった。また、日本経済の成長を反映して、都市間の移動、観光地への行楽客が増加。車両性能の向上や道路事情の改善も手伝い、バスによる長距離輸送時代が到来した。さらに高度経済成長期に入ると、高速道路網の整備や都市周辺部におけるバイパスの建設が進むにつれ、バスは鉄道の補完的機能とは別の価値を持つまでになり、特急バスの運行や他社路線との相互乗り入れを積極的に実施した。
南海圏の拡充
この時期、私鉄各社は「観光開発」「沿線開発」の名のもとに多角的な勢力圏拡大に努めたが、当社においても「南海圏の拡充」を目標に諸施策が実施された。南海圏とは①自社沿線②紀伊半島(紀北、紀南、三重県の一部)③四国・淡路島の3地域とし、交通網の拡充によって「線」を確保し、「点」となる旅客誘致施設を充実させ、当社グループによる広域南海圏の開発を目指した。
南紀地区については、1959(昭和34)年国鉄紀勢本線(現:JR紀勢本線)の全通と同時にディーゼル準急「第二きのくに号」を難波~白浜口間で運行したほか、1961年には難波~新宮間に「南紀一号」、1962年には「南紀二号」を増発した。
一方、自動車事業では1954年に「白浜急行バス」を設立し、大阪~和歌山~白浜間の直通路線バスを運行。1963年には「熊野交通」が橋本~五条~新宮間の長距離バス「五新線」の運行を開始した。また、勢力拡大策の一環として、和歌山市、海南市、紀北地区で軌道線やバス網を有する「和歌山電気軌道」を1961年に吸収合併し、地域交通網の有機的な整備・統合を図った。
これら「線」の確保とともに「点」の充実・拡大については、1950年に「南海ホークス」の本拠地「大阪スタヂアム」を開場したのをはじめ、「みさき公園」の開園に続き「さやま遊園」の営業を再開。ホテル・旅館では、1961年、勝浦温泉に国際観光旅館「中の島」、白浜温泉に「ホテルパシフィック」、岬町に「淡の輪苑」を相次いで開業したほか、1964年には白浜に旅館「朝日」、新和歌浦に「萬波」、橋本市に「紀の川苑」を開業した。
四国・淡路島地区については、四国航路開設により四国進出への足がかりを得、1961年に「徳島バス」に経営参加し、「徳島南海タクシー」を設立。また、淡路島への海上ルートについては、1961年に「大阪湾航送船」に経営参加し、深日~洲本間にフェリー航路を開設した。
1970年代からは、難波駅改造整備、高野線複線化、和歌山市駅ビル建設といった主要工事など将来構想に基づく中長期計画に取り組むとともに、1960年代から推進している輸送力増強計画に基づいて運輸施設の近代化を図った。
その一方で、資産を活用した不動産・流通事業に積極的に取り組む方針をとり、「南海狭山ニュータウン」を皮切りに「南海くまとりニュータウン」「南海橋本林間田園都市」「南海美加の台」など、沿線各地で大規模な住宅開発を進めた。
また、1978年には流通事業本部を新設して体制を整え、難波駅の大改造に伴う複合商業施設「なんばCITY」を完成させたほか、駅周辺の社有地を有効活用した商業施設「ショップ南海」のチェーン展開にも力を注いだ。
新空港関連事業
1985(昭和60)年に創業100周年を迎えた当社は、関西国際空港建設の正式決定に伴い、空港アクセス事業や難波地区再開発など、新空港関連事業に真正面から取り組んだ。
1987年12月に事業免許、その後各種施工認可を取得し、1991(平成3)年3月から泉佐野~前島(現:りんくうタウン)間を着工。1994年6月空港線を完成させ、同月15日に開業し、9月4日の開港に備えた。空港特急として導入した「ラピート」は最短アクセスとしての利便性と斬新なデザインで高い評価を受け、開港3か月余りで利用客は100万人を突破した。
難波地区再開発のさきがけは「南海サウスタワーホテル大阪」の建設だった。1988年4月に新会社「南海サウスタワーホテル」を設立。1990年3月に開業した同ホテルは、世界へのゲートシティにふさわしいランドマークとなった。
一方、難波地区再開発構想は大阪球場を中心とした地域を一体開発する計画で、同球場の移転が経営課題となっていた。そうした中、1988年9月「ダイエー」から南海ホークスの譲渡の申し入れがあり、断腸の思いで決断。1989年のシーズンから「福岡ダイエーホークス」として再出発することが正式に決まった。
この間バス事業では、1987年3月、堺駅~堺東駅間で関西初となるシャトルバスの運行を開始。1988年10月からは高速バス「サザンクロス」の運行を開始した。空港アクセスについてはリムジンバス「Sorae」が走る直営路線と、当社と航空3社で設立した「関西空港交通」の路線で運行した。
流通事業では、1989年の「ノバティながの」に続いて「しんかなCITY」「いずみおおつCITY」を順次オープンし、「なんばCITY」のノウハウとコンセプトを生かしたネットワークを強化した。
レジャー事業では、1987年6月「みさき公園」に大型レジャープール「ぷ~るらんどRiO」を開設。春秋の行楽シーズンに加え、夏の集客に努めた。
また、関空の開港を目前に控えた1992年には、鉄道事業を軸とした地域に密着した「総合生活企業」への飛躍を目指す方針が打ち出された。そこで「新しい南海」の創造を具体的なかたちとして示すために、CI(コーポレート・アイデンティティ)を導入。1993年4月から、新しい企業理念とコーポレートシンボルがスタートした。