わが国最古の私鉄の創業
1884(明治17)年6月、大阪財界の重鎮であった藤田傳三郎氏や松本重太郎氏など19名が発起人となり、わが国初の純民間資本による鉄道会社「大阪堺間鉄道」が設立され、敷設免許を受けた。その名のとおり大阪と堺を結ぶ鉄道「大阪堺間鉄道」は、同年11月「阪堺鉄道」と改称。これが当社の前身であり、140年におよぶ歴史の始まりでもある。
ミナミは、江戸期から道頓堀の芝居小屋・五座や法善寺横町のたいそうな賑わいで知られてはいたが、1879年に施行された区制においても、その賑わいは北は堂島、南は道頓堀までで、道頓堀川を渡れば場末だったという。当時の難波駅周辺の様子について、1959(昭和34)年8月に刊行された『大阪歴史散歩』には次のように記されている。
「難波の歴史は南海電車の開通にはじまる。そのころ、難波界隈は千日の墓地につづく一面のねぎ畑で、その中に流れていた難波新川は(中略)淋しい場所であった。ここに明治一七年わが国初の私鉄阪堺鉄道の岡蒸気が、八〇年の歩みを開始し、のちこれが南海電車となり、維新後とりつぶしになったお蔵あとに、明治三七年専売局の煙草工場ができて、(中略)煙草を作ったのに前後して、難波新川の土橋付近で、大阪相撲が花やかな場所開きをするなど、ようやく難波に人が集まるようになった」(原文ママ)
鉄道建設工事は順調に進み、1885年12月に難波~大和川間7.6kmを小型蒸気機関車で開通。その後、1888年5月には、堺の吾妻橋まで路線を延ばし、当初の計画通り難波~堺間の全線開通となった。
阪堺鉄道から南海鉄道へ
「阪堺鉄道」の開業をきっかけに全国で民間資本による鉄道建設が相次ぎ、第一次私鉄ブームが起こる。そうした中、1889(明治22)年に堺~和歌山間を結ぶ「紀泉鉄道」が計画され、1891年には「紀阪鉄道」が発足した。
「紀泉鉄道」は「阪堺鉄道」の首脳陣らが別会社として設立したもので、実質的には「阪堺鉄道」の路線延長であったため、1893年には両社の合併がまとまりかけた。ところが、同時期に和歌山までの鉄道を出願していた「紀阪鉄道」とも協議のうえ出願を一本化することとなり、同年10月「紀阪鉄道」は「紀泉鉄道」と合併。新社名は「紀摂鉄道」から「南陽鉄道」に、その後さらに「南海鉄道」と変更された。このとき初めて名があがった「南海」こそ、東海道、中山道、山陽道など、古来からの街道にちなんだ気宇壮大な名称だった。
1895年に誕生した「南海鉄道」は、1897年10月に堺~泉佐野間を開通したのち、1898年10月には「阪堺鉄道」の事業を全面的に譲り受け、さらに延長工事を進め、1903年3月、難波~和歌山市間を開通させた。こうして南海本線は全通したが、これと同時に和歌山市駅と紀和鉄道(現:JR和歌山線)を結ぶ連絡線が完成。大阪方面からの高野山参詣がすこぶる便利になり、相互直通運転も行われた。
なお、1901年には梅田にも乗り入れている。1900年に天下茶屋から分岐して「関西鉄道」(現:JR関西本線)天王寺停車場まで連絡する天王寺支線を開設。1895年に天王寺~梅田間を開業していた「大阪鉄道」(現:JR大阪環状線)を吸収合併した「関西鉄道」と契約を締結し、住吉~梅田間の直通運転を実施した。
電車時代の到来
明治後期から大正にかけて、私鉄は汽車から電車の時代に移り、第二次私鉄ブームが起こった。この当時、箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)や大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道)など関西の有力私鉄が相次いで開業している。
こうした中、1907(明治40)年にいち早く難波~浜寺公園間を電化した「南海鉄道」も、合併による路線拡大を急ピッチで進めていく。1909年には「浪速電車軌道」を合併して上町線とし、1915(大正4)年には「阪堺電気軌道」を合併して阪堺線および平野線とした。なお、浜寺公園以南の電化も順次進められ、1911年に難波~和歌山市間の全線を電化、同時に進められていた全線複線化工事は1922年に完成している。
先述の「浪速電車軌道」の前身は、1897年に創業された「大阪馬車鉄道」。住吉大社への参詣客や、当時天下茶屋にあった遊園地への行楽客の誘致を目指し、天王寺~住吉間を馬車鉄道で結ぶ計画だった。「南海鉄道」にとっては並行路線となることもあり、1900年に天下茶屋~天王寺間を結ぶ天王寺支線を開業するなどして対抗した。その後、費用がかさむばかりでなく運輸収入も伸び悩み、馬車鉄道の限界を感じた「大阪馬車鉄道」は、電車運転に切り替えることになる。1907年3月「大阪電車鉄道」と改称。さらに10月には「浪速電車軌道」に変更し、電化工事に着手した。この頃から、同社には大株主と経営陣との間で行き違いがあり、交渉は難航したものの関西財界の大御所・藤田傳三郎氏の仲介により、1909年12月付で「南海鉄道」との合併にこぎつけることになった。
南海鉄道の拡充
1910(明治43)年に設立された「阪堺電気軌道」は、大阪・恵美須町~堺・浜寺間と途中分岐して宿院~大浜水族館間を結ぶ路線を申請し、先の「浪速電車軌道」とは比べ物にならない脅威となった。「南海鉄道」は強力なライバルが本格的に営業を開始するのにさきがけ、対抗策として1905年から続々と関連事業に進出していった。
浜寺公園に園遊場を設け、斬新な洋館を建てて直営の食堂を開業。「浜寺公会堂」もお目見えした。1906年には「浜寺海水浴場」を開設。難波~和歌山市間急行蒸気列車内に喫茶室(ビュッフェ)を設け、西洋料理と和洋飲物を提供するサービスも始めている。1908年からは「淡輪遊園」の開発に本格着手。1911年には、難波駅待合所2階に大食堂「南海食堂」を開業。その後、各電鉄が競って直営食堂を兼業するようになるが、そのさきがけとなった。
これに対して1912年に全線開業した「阪堺電気軌道」は、大浜公園の開発に乗り出し、「大浜公会堂」や「大浜汐湯」の建設など、客集めに全力を注ぎ、あの手この手の戦略で南海に立ち向かった。両社の客引き合戦は過剰になり、割引サービスや極端な値下げ合戦までになる。やがて、株主の間から無益な競争をやめ、両社協調して発展的にことを運ぶべきだとする意見が支配的になり、1915(大正4)年6月をもって「南海鉄道」を存続会社とした両社の合併が決まった。
高野線の形成
「南海鉄道」は、さらに1922(大正11)年には現在の高野線である「大阪高野鉄道」と「高野大師鉄道」を合併し、1925年7月には汐見橋~高野下間を全通するとともに岸ノ里で南海本線と連絡させた。
ここでいう「大阪高野鉄道」の前身は、1896(明治29)年に創業された「高野鉄道」になる。ちなみに、設立前の名称は「堺橋鉄道」だったが、高野山参詣客を考慮して改称されたものと思われる。同社は、1898年大小路(堺東)~長野間の営業を開始したものの、開業区間が純農村地帯で大阪都心部とつながりがないため、営業成績はすこぶる振るわなかった。そこで1900年、道頓堀(汐見橋)~大小路(堺東)間の営業を開始し、大阪~長野間の直通運転を実現させるなど種々の方策を試みたが、営業成績は好転に至らなかったため、別に新会社をつくり「高野鉄道」の事業いっさいを譲渡することになった。1907年に設立された「高野登山鉄道」は、長野~橋本間を延長し、将来は高野山までの敷設を目的とするもので、発足以降既設路線の積極的な旅客誘致策を展開し、業績の向上を図った。1915年に長野~橋本間が開通し、業績はようやく好転のきざしを見せた。これにあわせて、社名を「大阪高野鉄道」に変更し、大都市大阪から高野山までの路線イメージを強調した。
もうひとつの「高野大師鉄道」は、「大阪高野鉄道」が紀ノ川以南から高野山に延長するにあたって「和歌山水力電気」から敷設権を得るため、1917年9月に設立された。
「大阪高野鉄道」が橋本まで線路延長したことで、「南海鉄道」にとっては強力な競争相手が現われたこととなり、阪南交通機関の統一の意味からも、早急に同社を合併する機会をうかがっていた。そうして1922年、両社は対等合併することで合意。同時に「高野大師鉄道」も合併した。
さらに1925年3月、高野下から高野山までの鉄道敷設を目的に「南海鉄道」の子会社として「高野山電気鉄道」が設立され、1928(昭和3)年に高野下~紀伊神谷間、1929年に紀伊神谷~極楽橋間が開通した。このあと、高野山上までの路線工事が残されたが、翌1930年、ケーブルカーとして開通している。「南海鉄道」は、1932年4月に「高野山電気鉄道」と相互乗り入れを実施。難波~極楽橋間の直通運転を開始し、現在の当社幹線の形成をほぼ完了した。