130年略史

1926~(昭和-戦前-)

拡大する鉄道網、広がる暮らし

バス事業への進出

昭和初期の大阪は、御堂筋の建設、地下鉄の開通など、ダイナミックなまちづくりが進められた。この都市計画に呼応するように、1928(昭和3)年「南海鉄道」はバス事業に進出。1932年には難波駅にターミナルビル「南海ビル」を建設して、地下鉄との連絡施設を完成させた。後の「南海グループ」の事業展開の原型は、この頃に築かれたといえる。

「南海鉄道」の自動車事業は、乗合バス事業の免許取得がままならず、やむなく自動車7台を購入して貨物営業からスタートした。その後、沿線の既存業者からの事業譲渡あるいは資本参加を試み、1928年7月、牛滝線を主とした路線約20kmの「和泉自動車」を合併したのをはじめ沿線バス事業者を矢継ぎ早に合併し、10年後には、ほぼ南海沿線各地域に路線を持つようになった。1938年には、「楠公自動車」「岸和田南海自動車」「昭和自動車」の3社が「堺乗合自動車」と合併し、商号を「南海乗合自動車」と改称、「南海鉄道」の系列会社として新発足。同年10月、同社へ「南海鉄道」の直営バス事業のいっさいを譲渡した。

バス事業のルーツを物語る貨物自動車
バス事業のルーツを物語る貨物自動車

阪和電鉄との競争と戦時統合

一方、1930(昭和5)年6月、南海本線と並行して天王寺~東和歌山間を全通させた「阪和電気鉄道」は、高速車を投入して「南海鉄道」と激しい競争を展開した。スピードアップを図り、速さを売り物にする一方、利便性やサービスの向上にも努めた。また、乗合自動車業や住宅開発事業にも乗り出し、レジャー面でも「砂川遊園」を開設するなど、関連事業が充実している「南海鉄道」を向こうにまわして、積極的な事業展開を図った。

中でも国鉄白浜口まで乗り入れる南紀直通列車をめぐっては、「阪和電気鉄道」が1933年から「黒潮号」を運行したのに対し、「南海鉄道」は1934年から「黒潮列車」の運転を開始し、火花を散らした。「南海鉄道」は1936年からわが国初の冷房車の営業運転に入り利用客から好評を得たが、日中戦争が始まったこともあり、当局からぜいたく、資源の無駄遣いとの指摘があり、1938年には姿を消した。

黒潮列車運転のポスター
黒潮列車運転のポスター(1934年11月)

そのうち、両社のスピード競争や運賃割引競争に対して、安全面から、あるいは経済面から問題視する意見が出はじめ、運輸当局のすすめにより、1940年12月「南海鉄道」が同社を吸収合併することとなり、「阪和電気鉄道」の路線を「南海鉄道山手線」と改称した。

しかし、翌1941年12月に太平洋戦争が勃発。戦時色が日に日に深まる中、政府は戦時輸送体制強化を目的に私鉄の統合合併を強力に推し進めた。その流れには抗しきれず、1942年2月に和歌山口~加太間を運行する「加太電気鉄道」を吸収合併。さらに戦局が悪化した1944年5月、「南海鉄道山手線」を運輸通信省に譲渡し「国鉄阪和線」とすること、さらに同年6月、「関西急行鉄道」と合併して、「近畿日本鉄道」と社名を変えることを余儀なくされた。

なお、戦前の「南海鉄道」時代には、自動車事業以外に3つの関連会社を有していた。そのうちのひとつが1938年に設立した「南海野球」で、わが国のプロ野球に9番目の野球団「南海軍」としてデビューした。「乗客へのサービス、全国的な企業のイメージアップ」を目的としたが、スポーツに意欲的な社風で知られる当社は、いやが上にも盛り上がり、社を挙げて声援を送った。のちの「南海ホークス」である。

南海山手線の増備車両
南海山手線の増備車両(1941年4月)