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南海電鉄の歴史 - 鉄道博物館

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創業
 当社は、わが国最初の純民間資本による民鉄で、阪堺鉄道を前身としています。
阪堺鉄道は、明治17年6月、当時大阪財界の雄として重きをなしていた藤田傳三郎氏、松本重太郎氏ら19人が発起人となって、大阪堺間鉄道として敷設認可を受けました。
 大阪堺間鉄道は、のち阪堺鉄道と改称して建設を進め、翌18年12月27日、難波~大和川間(7.6km)を小型SLで初めて開通しました。21年5月、路線を堺の吾妻橋まで延長し、当初の計画どおり難波~堺間を全線開通しました。
初代 難波駅
初代 難波駅
南海鉄道
 明治22年、堺と和歌山を結ぶ紀泉鉄道が計画されました。一方、24年には紀阪鉄道が発足。両社は合併して28年に南海鉄道となり、30年10月、まず堺~泉佐野間が開通しました。
南海鉄道は、翌31年10月、阪堺鉄道の事業を譲り受け、36年3月21日には難波~和歌山市間を全通しました。南海鉄道は大正11年、現在の高野線である高野大師鉄道と大阪高野鉄道を合併し、14年7月、汐見橋(道頓堀)~高野下間を全通するとともに、岸ノ里で南海本線と連絡しました。また、南海鉄道は明治42年浪速電車軌道を合併して上町線としたのをはじめ、大正4年、阪堺電気軌道を合併して阪堺線・平野線とし、南海の路線は、この時期にほぼ形成されました。
二代目 難波駅
二代目 難波駅
高野山電気鉄道
 一方、大正14年3月28日、高野下から高野山までの鉄道敷設を目的とした高野山電気鉄道が設立されました。同社は、昭和3年6月、高野下~紀伊神谷間、4年2月に紀伊神谷~極楽橋間、5年6月には鋼索線を開通しました。さらに、7年4月からは、同社と南海鉄道との間に相互乗り入れが実施され、ここに難波~高野山間の直通運転が始まりました。
三代目 難波駅
三代目 難波駅
関西急行との合併
 昭和5年6月、天王寺~和歌山(東和歌山)間に阪和電気鉄道が開通し、南海鉄道との間で激しい競争が展開されました。その後、監督当局のすすめにより、南海鉄道は15年に阪和電気鉄道を合併、南海山手線としました。
やがて苦難期を迎え、戦局の悪化とともに、政府は戦時輸送体制確立のため民鉄10社に対し強制買収をきめましたが、山手線もその対象となり、19年5月、運輸通信省に譲渡。続き同年6月、南海鉄道は関西急行鉄道と合併、社名を近畿日本鉄道としました。こうして南海鉄道の南海線・高野線は近畿日本鉄道難波営業局の、軌道線は同天王寺営業局の所属となり、終戦を迎えました。
四代目 難波駅
四代目 難波駅
新発足
 戦災による影響は大きく、復旧は遅々として進まなかったなかで、南海鉄道は近畿日本鉄道から分離、新発足することになりました。形式的には高野山電気鉄道が母体となって、近畿日本鉄道から旧南海鉄道に属した鉄道および軌道線のすべてを譲り受けました。高野山電気鉄道は、昭和22年、社名を南海電気鉄道と改め、同年6月、旧南海鉄道路線の譲渡を受けて新発足しました。
36年には、南海圏の拡充のため和歌山電気軌道を合併、46年全線廃止しバス事業に一元化されるまで、大阪軌道線(阪堺線・上町線・平野線)に対し和歌山軌道線として営業。大阪軌道線については地下鉄谷町線の延長開通を機に、平野線を55年に廃止。阪堺線・上町線は同年12月 、阪堺電気軌道に譲渡しました。また、天王寺支線については、地下鉄堺筋線の天下茶屋延伸を機に、平成5年4月1日に営業を廃止しました。
 平成7年、創業110周年を迎えた当社は、鉄道事業をはじめ、バス、住宅開発、不動産、流通、レジャー、文化など広範な事業に取り組んでいます。なかでも、空港アクセスをはじめとする空港関連プロジェクトは、南海電鉄とグループ会社が総力を結集して積極的に推進したものです。6年6月15日から鉄道、バスによる開港前輸送を実施し、9月4日の開港により本格的な空港輸送を開始しました。また、5年4月には、新しい企業理念とコーポレートシンボルを制定、21世紀へ向け大きな飛躍発展を図るため、豊かな未来を創造し、社会に貢献する総合生活企業をめざしています。
沿  革
沿革